「ナタリーってこうなってたのか」:スクールカースト下位層の頑なさ

コーハマです。

 

昨日に引き続き読んだ本の感想をば。

今日はナタリーというポップカルチャー専門のニュースサイトを運営している会社の話。

ちなみに僕は10代や大学時代のほとんどすべてを音楽に費やしたバンドマンだったので音楽メディアに対して思い入れは強いのである。

 

 

社会性⇔アート

ナタリーというメディアの雰囲気にはスクールカーストの下位層の臭いみたいなのがする。

もっとわかりやすく言うと、”クラスに一人はいる音楽オタク”の空気感だ。

キモい訳じゃないし友達がいないこともないけど趣味が人と違ってたりコアだったりして普通の人が理解するのには少々厄介であり、よく野球部とかアメフト部からは敬遠されるタイプの人間。(僕もこれだった…)

女友達もいるし別に変ではないけどどこか浮いている存在、これが”クラスに一人はいる音楽オタク”の姿であり、ナタリーにはそんな微妙な存在感と重なる雰囲気があると思う。

 

なぜだろう?と考えたんだけど、本を読んで”硬派さ”がスタンスの主軸に据えられていることが関係していると感じた。

 

社会性の対になる概念はアートだと思うんだけど、アート寄りの人間の難点は"空気の読めなさ"だと僕は思っていて、いわゆるクラスの人気者的な要領の良さを持ち合わせていない印象がある。

しかし、頭が悪いとかCPUがお粗末なんてことはなくて、むしろ頭が切れて物事に対する深い洞察力を持っていたりもする。

 

ただ、周りに合わせられないのだ。

 

社会性が相対的に低いアートの人ほど情熱がものを言うし、物事の動機が自分の内面に集約されるという話は前回のエントリーにも書いたが、この人種は物事の判断基準が自分以外のところにあることがなかなか認められない。

特に好きなモノとなると余計に合わせられない。

 

社会性のなさ故に妥協する(=人に合わせる)ところを知らない。

ただ、一方で彼らの姿勢には不器用であるが故にある種の”硬派さ”が伴っていて、軟派なものを寄せ付けない強さがある。

 

このことは、著者がナタリーの立ち上げ当初にマネタイズについて考えていなかった、というエピソードなんかで象徴的に描かれていた。

要領良ければもっとPV稼いだり広告収入を上げたりできるけど、ナタリーは敢えてそれをせず一ファンとして欲しい情報をひたすら配信し続けるのだと言う。

 

”ゆるい”とは言われてもぬるいことはしていない、という一節が印象的だった。

 

そんな頑な”硬派さ”によってナタリーは成り立っているし、”硬派さ”に共鳴した人たちがサイトのフォロワーとして存在しているのだと思う。

会社って「法に定められた人」という意味で法人と呼ぶのだそうだが、確かに人格みたいなものが記事のスタンスに表れているのだろう。

そういう意味でナタリーを運営しているナターシャという会社そのものが”クラスに一人はいる音楽オタク”の様相を醸しているのだろう。

 

案外、模範的なネットメディア

ここまで書いたように本書ではナタリーがかなり”硬派なメディア”として書かれているのだが、その硬さはメディアにとって大きな差別化要因だ。

 

と言うのも、ちょっと前からバイラルメディアなんて呼び名でたくさんのニュースサイトやまとめサイトが濫立していて、それらはモロにPV至上主義と言わんばかりのことを恥ずかしげもなく行っていたりする。

こないだもTABI LABOが他のサイトの記事を丸パクリして掲載していたなんてこともあったし、ただただバズを生むために2ちゃんの記事をコピペしまくってる会社なんかもあるそうな。

 

こういうニュースを見てしまうとまだまだネットに対するキナ臭さを感じてしまう。

だから、拠り所として新聞みたいなエスタブリッシュメント全開のメディアにまだまだ安心感を覚えている僕みたいなのもいる訳だが、本書を読んでナタリーが如何に”硬派なメディア”であるかが伺え、同時に安心感も感じることができた。

 

コンデナストという海外の歴史ある出版社の記者は、招待されたファションショーの記者席が最前列に用意されていないと自分の前にある席を蹴り上げて帰ってこないといけないという決まりが未だにあるそうだが、それだけ一流メディアであることのプライドを持っているという話として受け取ることができる。

コンデナストの例は少し極端だけど、ネットメディアこそプライドみたいなものをきちんと持った会社が生き残るんじゃないかな。

 

愚直なプライドが安心感を与えてくれる。

そういう意味でナタリーはこれからもたくさんの人に愛され続けるメディアでいるんだと思う。