7年前のとある新入社員がベンチャー企業に転職して地獄を見るまで

23歳、田端信太郎氏のブログに出会う 

 

2011年。23歳の僕は、悩んでいた。

上場企業に就職をし、日々新しいことに向き合いながら仕事に追われていた僕は「ここにいても成長できないかも」と心の中でずっと感じていた。

 

最初の会社に入社することは本位でなかった。

当時、僕たちの年代の学生はリーマンショックの大打撃を就活期間にもろに受けており、各企業の採用人数は今の約7〜8割程度。有名なメーカーや総合商社でも採用取りやめが出るレベルの市況の中、僕はとりあえず内定をもらえた大手企業に就職をすることにした。

入社をしてからは、引きずっていた違和感がより一層強くなり、先輩社員や上司を見ても「こんな風になりたくない」と訳もなく拒否感を感じるようになっていた。

 

その頃に田端信太郎氏のブログに出会う。

TABLOG:10年前のとある新入社員が初めての転職を決意するまで - livedoor Blog(ブログ)

そこではNTTデータでの新入社員時代の田端氏が苦悩しながら入社2年目にリクルートへ転職するまでのことが書かれていて、ファーストキャリアで悶々としていた自分は自然と引き込まれていった。

そして、最初の会社を早期に辞めたものの、その後に市場価値を身につけながら勢いのある会社に身を置き続ける彼の経歴は大いに魅力的に映った。

 

毎日、昼休みになるとこのエントリーを読んでいた。

 

この頃から徐々に自身の転職を意識するようになる。

 

 

ベンチャー企業へ転職

転職を意識して半年ほどが経ち、最初の転勤の話が出た時に動くことを決意した。

狙うは将来性のあるベンチャー企業。その頃、東京では新興の企業が出てきてはメガベンチャーへバイアウトされたり華々しく上場したりするケースがたくさん見受けられたので、自分もスケール前の段階の企業に飛び込み、会社の成長と両輪で自分の経験を積み上げれば市場価値を上げられると考えた。

文系で非エリートな自分が取れる戦略としては、営業・組織作りを横断的にスケールさせる、言わば大企業のように出来上がった組織で部分的な役割を担うのではなく、自分で成長させられる白地がある会社を大きくする経験を積むことがその後の市場価値に繋がると思った。

 

わからないなりに人材紹介会社に登録をし、いくつか提示された案件に応募することにした。

紹介された中にはDeNAリクルートもあったが、あえて小規模で特色のある会社を選んだところ、とある案件に目が止まる。

それは、社員数10名程度、創業2年目の企業。

具体的な業態を書くと特定されるので書かないが、かなり特殊なビジネスモデルの(物流×商社のような)会社で、コンサルティングファームが出資をしている兼ね合いで常駐する社員には外資のコンサル出身者が多数おり、社員レベルが高いと思しき組織。

 

「ここなら将来性がある」

 

そう思った僕はすぐさま紹介会社の担当にお願いし、面接を設定してもらった。

そして、社長との面接を経て即日で入社が決まった。

(ちなみにこの時お世話になった人材紹介会社のスーパー営業マンの話は↓)

journal-me.hatenablog.com

 

物流センターの立ち上げに参加する

その頃、僕はEXCELも満足に使えず、ビジネスメールもたどたどしいような状態で、今思えば基礎力がない中での転職だったと言える。

先輩や上司には事前情報通り学歴ピカピカの現役コンサルや会計士が居た。

そんな中で事務仕事はかなり鍛えられた。

冗談ではなく1日10時間以上Excel作業をすることもざらにあり、東大卒の先輩が2徹でパワポを仕上げて床で寝てる傍で大量のデータをベタ打ちしてるという光景が毎日のように続いた。 

そんな中、新たに契約した物流センターでの仕事を担当させてもらえるようになった。

仕入れた商品の入出荷にかかる作業工程を作ったり、派遣会社の選定や人の手配、物流の計画も考えないといけず、上司も営業をしながら毎日うんうん唸って一緒に業務フローを考えていた。

大口の契約も決まった関係で急速に会社が忙しくなったタイミングでの入社だったので、厳しい環境ながらとても充実していた。

 

とにかくスピードが早い。

毎日新しい案件が舞い込み、それに伴い計画すべきことも増えて社員同士で話し合わなければいけない時間も多くなる。

そうした中で毎日15時間程度の労働が常態化していたのでみんなが疲弊していくのも同時に見て取れた。

 

入社2ヶ月目、女性の先輩が倒れた。

会議中に社長に話を振られ、目が合った時に過呼吸になったのだ。

急いで他の女性社員が処置をしている傍で社長は遠い目をしていた。

 

ほんとのM&Aをみせてやる

客先のA社が債務不履行になり、倒産するという話が舞い込んできた。

この会社は小規模ながら誰もが知っている大手メーカーとの繋がりがいくつかあった。

その後、A社の担当者をうちで引き受けるということになったと社長から報告があった。40代後半の営業マンで高校生の子供がいる男性だ。

社内の会議でそのことを告げた後、社長は「ほんとのM&Aってのはこうなんだってのを見せてやるよ」と意味深な発言をしていた。

 

社長は40代前半。バリバリの経歴の持ち主で、20代で外資コンサルのマネージャーになり、30代で上場企業の役員も経験している凄腕だ。

しかしながら、人間性にやや偏りがあり、ビジネスに関わることとなればアドレナリン全開で、ともすればサイコパスとも言えるほどサディスティックに振る舞うこともあった。 

 

件の営業マンが入社をして暫くは営業同行でも会議でも社長とは仲良くやっていた。

が、1ヶ月ほど経ったある日、彼は急に配属を営業から物流センターに変えられた。

仕事内容は派遣の作業員と同じだった。

なぜそうなったかはわからないが社長が気を悪くすることがあったと言い、彼に配属の変更を命じたのだ。

そこから社長の執拗ないじめがはじまり、結果的にその営業マンは3ヶ月を待たずに辞めた。

一方、彼の引張ってきた大手メーカーの担当者と社長はその後うまく関係を作り、客先のひとつになった。

会議にて嬉々としてそのことを語る社長。M&Aの本質を目の当たりにし、社員全員が凍りついた。

 

上司が壊れた

社長とは何度も営業同行させてもらった。

誰もが知ってるグローバル企業やイケイケのネット企業、恵比寿のちょっとセクシーな会社までたくさん連れていってもらった。

社長は特殊な人だった。

提案には企画書は持参せず社長がその場にあるホワイトボードやノートに絵を書くというスタイルで、相手の担当者もその話術に引き込まれ、初めての訪問でも次の展開へどんどん進み気づけば案件になっている。

僕はその絵を記録して文章化したものを企画書にしなければならず社長からダメ出しもバンバンもらった。

それはとてもいい経験になった。

 

ただ、社長の要求は常に狂気を帯びており、風呂に入ってる時に企画を思いついた社長が風呂場から電話であれやれこれやれとエコーのかかった声で指示をするのは日常茶飯事で、まだ取引のない会社を勝手に取引先企業一覧に載せて「ここ開拓しといて」と無茶振りしたり、「この案件すべったら土下座しに行ってね」と言われることもあれば夜中に事務所に呼び出され「この木なんの木」みたいな大きなロジックツリーをバーっと書いてこれを朝までに資料に落とし込めと言われたりと対応がとにかく大変だった。

また、社長から突如「アラブに売り先決まったから来週末に40フィートのコンテナ手配しといて」というリクエストがあり、コンテナと人の手配、更には積込までフル対応したこともあった。

 

ちなみに社長は電話のしすぎで耳が常に低温やけどしていた。

(社長の話はいろいろありすぎてまとめられません↓)

journal-me.hatenablog.com

そんな社長への対応とハードな職場環境と相まって身体を壊す社員も続々と現れる。

 

上司の1人がうつ病を発症して来なくなってしまった。

奇しくもその前日は上司の家に終電を逃した社長が泊まっており、翌朝出された朝食のごはんが炊き立てだったらしく、「熱すぎるんだよーー!」と憤慨し、社長が奥さんにブチ切れたという事件のあった日だった。

以降、物流センター立ち上げのキーマンだった上司が来なくなり、事業に大きな影響が出ることになる。

 

先輩、同期、そして社長もいなくなった

社長はかなり勢いのある人だったが、親会社のトップには頭が上がらなかった。

社長は親会社の社員で、いわゆる出資先へ出向している状況なので関係としては大企業の上下関係と同じだ。

そして、親会社のトップはこれまた厳しかった。

非常に神経質で細かいことに目が行き届き、少しのミスも許されない。

数字に繋がらないものはすぐに切れという。

できないならお前(社長)がクビだ、と平気で言う。

 

そんなプレッシャーにさらされた社長は日々の僕たちへの接し方が激しくなるのも無理はなかった。

ある日、同僚が退職した。

入って10ヶ月だったが、過酷過ぎるためのギブアップだった。

その後も辞める人が続出した。

 

そんな中、親会社から何人かが出向し、同時に社長の交代の話が言い渡された。

実質的な社長へのクビ宣告。

理由は、期待されていた結果を社長が出せなかったことだと言う。

しかし、社長はその直前にもグローバル企業から超大型の案件を受注し会社の収支が一気にスケールしたところであり、成績に関して悪く言われる要素はなかったはずだった。

ただ、この会社自体が親会社の当時20代だった幹部候補がアイデアを出し、具体的な形でスピンアウトさせたものだったこともあり、厳しいアーリーステージに社長に任せて軌道に乗ったところをうまく親会社がコントロールしようという算段だったと取れる。

事実、交代後の社長は例の幹部候補だった。

 

社長は親会社のトップとこれまでにあまりいい関係を築けていなかったという話を聞いた。

社長はその後、目標未達を理由に降格処分の上、親会社に戻らされたが退職をしたようだ。

それは大企業の恐ろしい側面を垣間見た瞬間でもあった。

 

混乱の中、僕もこの会社を辞めることになった。

毎月160時間程度の残業や激しいプレッシャーで身体が限界に達していたのに加え、新たな組織への不安が大きかったことによる判断だった。

 

地獄のベンチャー生活で得たもの

結局、僕は会社がスケールするまさにその瞬間というタイミングで退職することになったが、業務フローの計画や組織作りという大きな経験もあり、その後別のベンチャー企業に就職することとなった。

皮肉にもベンチャーに入社したことで、「大企業の怖さ」に触れる経験をしたことも大きかったのだが、地獄のような修行で得たものは確かにあった。

 

業務をゼロベースで立ち上げる経験ができた

仕組みを作る側に回ることは経験として重要で、しかもなかなかできることではない。

新しい業務の発生からの業務フローの構築、派遣の発注やそれに伴う業者の選定、法律のチェック、原始的な労務費の原価計算への挑戦、度重なるトラブル...すべてが想定していたものではなく、毎日朝が来るのが恐ろしかったが、何も無い中でたくましく生きるマインドセットはこの時に培われたと感じる。

優秀な社員(社長)の仕事を間近で見ることができた

優秀な人からどのように企画が出され、どんなスピードで具体化されていくのかを肌で感じながら仕事ができたことは大きな学びだった。

実際、仕入れ先も得意先も限られた中で川上/川下をどうくっつけて面白く提案できるかを考え抜いたのが社長だったので、単に物を売るのが営業ではないという発想が得られたことも財産だ。

会社がスケールする瞬間に立ち会えた

グローバル企業との契約で会社は目に見えて成長した。

出入りする業者も一気に増えた。ドアノックの提案から相手のニーズの深堀り、多部署を巻き込んでの案件の具体化まで隣で見ることができた。

会社の成長が加速するところに立ち会えたことは自分の自身にも繋がった。

 

 

結果的に、その会社でえらくなることはできなかったし、それを元手に大企業に転職することも叶わなかったが、普通ではなかなか見ることができない景色を見ることができた。

大変さを知っているので、もし自分が20代の新卒ならもう一度ベンチャーに行くかは躊躇するが選択肢には入るだろう。

この体験を今までなかなか記憶から引っ張り出せずにいたが、ようやく最近クリアに思い出せるようになってきたのでこのタイミングでしたためてみた。

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